それとともに、裁判制度に関する法整備も行われていた。つまり、裁判体は、原則的には、裁判官1人と人民参審員2人で構成される合議体であり、裁判官が裁判長になる。以上は、1931年から1937年までの約7年にわたって中華ソビエト共和国における人民参審員制度の基本構造である。......
2023-08-14
1931年11月7日、各地の農村革命根拠地から組み立てられた中華ソビエト共和国の臨時中央政府(首都は江西省瑞金)が成立し、その後、憲法大綱、労働法、土地法およびソビエト組織法などの法律が制定され、中央の最高法院から地方の裁判所までの裁判機関が置かれることになっていた。それとともに、裁判制度に関する法整備も行われていた。
1932年2月1日に、「中華ソビエト共和国軍事裁判所暫定組織条例」(原語は〔中華蘇維埃共和国軍事裁判所暫行組織条例〕で、以下「軍事裁判所組織条例」、合計34ヵ条)[2]は、初めての裁判制度に関わる法律として常設の最高権力機関である中華ソビエト共和国中央執行委員会により公布された。「軍事裁判所組織条例」の12条と13条には人民参審員(原語は〔陪審員[3]〕、以下全部「人民参審員」)に関する内容が定めてある。当該法令の12条は、「初級軍事裁判所の法廷は裁判官一人と人民参審員二人の三人により構成される。高級軍事裁判所で受理される第一審事件には、人民参審員が参加しなければならない。しかし、終審裁判には人民参審員が参加せず、裁判所所長と裁判官が法廷を構成する」と規定した。
また、第13条は、「人民参審員は兵士から選ばれ、一週間に一回改選する。裁判を行う期間中に、人民参審員は兵士の職務を履行しない。裁判終了後、元の部隊に戻る」と定めた。しかも、第14条の第三款に、「(付注二)重要ではない簡単な事件を裁判する場合、裁判官一人による裁判が許される。」とも規定された。これらの規定は、歴史上初めつの人民参審員制度に関わる条文であるが、非常に簡略的で、軍事裁判にしか適用されないものであったため、この時期の人民参審員制度の基本的な骨組みを描き出すことができなかった。
より明確な形で人民参審員制度を定めたのは、1932年6月9日に、中華ソビエト共和国の中央執行委員会が公布した「中華ソビエト共和国裁判所暫定組織及び裁判条例」(原語は〔中華蘇維埃共和国裁判部暫行組織及裁判条例〕、以下「裁判所暫定条例」、合計41ヵ条)[4]であった。当該「裁判所暫定条例」の第13条、第14条、第15条と第19条によって、この時期における人民参審員が参加する合議体の構成、人民参審員の選任手続、評議と評決の方法が定められた。具体的な内容は以下である。
まず、合議体の構成について、第13条は「法廷は労働者により構成される。裁判所所長あるいは裁判官を主審とし、その他、2人の人民参審員が法廷に参加する。(付注:重要ではなく簡単な事件は、裁判所所長あるいは裁判官1人で裁判するのも可。)」と規定していた。つまり、裁判体は、原則的には、裁判官1人と人民参審員2人で構成される合議体であり、裁判官が裁判長になる。しかし、簡単な事件は、裁判官1人で取り扱うことができる。
それに、第14条は、「人民参審員は従業員組合、雇用農業労働者組合、貧農会及び他の大衆団体によって選挙される。裁判一回ごとに2名の人民参審員が交代する。」と規定し、人民参審員の選任手続、選任資格、任務の終了について定めている。
さらに、同条例の15条で、「主審裁判官と人民参審員が多数決で判決を下す。多数決を得ない場合、主審裁判官の意見に基づき、判決書の内容を決める。人民参審員が自分の意見を強く堅持する場合、書簡で上級の裁判所に提出し、上級裁判所が当該事件に対する参考とする」という。この評決方法について、多数意見に到達できない時、主審裁判官の意見を優先させること、と人民参審員の留保意見を参考として上級裁判所に報告することから、これが「中国共産党の指導下の旧ソ連の影響を受けた参審制の原型であり、そこでは、結果的にあきらかに『主審の意見』が優位する形となっているのである」[5]と考えられる。
最後に、忌避について、第19条は「被告人との間に、親族関係または個人関係がある者は、該当事件を裁判することができない。(人民参審員にも裁判官にも適用)」と規定していた。また、第20条によると、判決書には主審裁判官と人民参審員が署名あるいは捺印し、その判決に対して責任を負わなければならないのであった。
以上は、1931年から1937年までの約7年にわたって中華ソビエト共和国における人民参審員制度の基本構造である。それを実施していた期間と地域はあまりにも限定されていたが、現行人民参審員制度の雛形はこの「裁判所暫定条例」に規定された内容によって、この時期に姿を現したと指摘されている[6]。
この時期において、法律草案の制定を担った者が中国共産党政権で最初の司法部長であった梁柏台である。梁は、1921年4月モスクワ東方大学へ入って、マルクス主義やレーニン主義をしっかり勉強し、1924年初めに卒業してから、旧ソ連の極東ハバロフスク省に派遣され、1931年まで当地の裁判所で裁判官になって裁判を行いながら、ソ連の法律と法務を研究していた。梁は1931年5月中国に戻って、9月中華ソビエト共和国中央政府の所在地であった瑞金に達し、中央司法委員会の委員に選ばれ、司法部の実際の責任者になり、法律案の起草を職務として負わせられた[7]。梁がソ連で勉強し、司法実務をした経験は中華ソビエト共和国時期における立法と司法が強いソ連の色彩、つまり、階級性、革命性と民主性を植え付けられた原因の一つであると考えられる。
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それとともに、裁判制度に関する法整備も行われていた。つまり、裁判体は、原則的には、裁判官1人と人民参審員2人で構成される合議体であり、裁判官が裁判長になる。以上は、1931年から1937年までの約7年にわたって中華ソビエト共和国における人民参審員制度の基本構造である。......
2023-08-14
このような裁判体は人民参審員制度の一種の特殊な形態であると思われる。以上の論述で建国前の人民参審員制度の概観を明らかにさせた。この時期における人民参審員制度は、中国共産党の大路線を理念として、多数の国民を革命に参加させようと動員する政治宣伝の機能を発揮していたと指摘されている[18]。......
2023-08-14
2010年5 月、呉中区基層人民法院が人民参審員制度を実施する先進的な人民法院として選出され、当該人民法院で制度を用する方式が呉中モデルと称され、当時の最高人民法院院長である王勝俊によって高く評価された。呉中規程は全部で45条あり、その大部分の条文が現行制度を規定している決定と最高人民法院が制定した内部文書の内容を踏襲するものであるが、一部の条文は呉中モデル特有のものとなっている。......
2023-08-14
人民参審員の選任資格について、決定第4条と実施意見第2条は、それを定めている。人民参審員を選任する前、裁判に要する人民参審員の人数を算定しなければならない。表3.4選任手続まずは、人民参審員の推薦または自薦である。最後は、任命された人民参審員の名簿を社会に公布することである。......
2023-08-14
決定第1条は人民参審員は裁判長を担当できないこと以外、裁判官と同等の権限を有する。人民参審員は開廷の三日前までに訴訟資料を全部読まなければならない。第20条は人民陪審員は、合議体の許可を得た上で、裁判官と共同で事案の事実について調査を行うことができる。人民参審員の権限は、訴訟資料の事前閲覧、並びに、当事者への尋問権限、訴訟の調停、事実の調査、という四つの事項に限定されている。......
2023-08-14
つまり、人民参審員へ人民参審員が裁判官の法律か紀律に違反した行動を発見したとき、裁判長あるいは院長、裁判委員会へ意見と建議を提出する権力、および当地の民が抱えた裁判官または裁判業務への意見を収集し人民法院へ提出する権力である。......
2023-08-14
日本では改革後の人民参審員制度に関する研究が盛んではない中で、2012年の葉陵陵「市民の裁判参加に関する比較的考察(3·完):アメリカ、日本及び中国を中心に」[20]および2013年の徐行中国における市民の司法参加システム——人民参審員制度[21]は人民参審員制度の理念·内容·現実を総合的に論じている希少な先行研究である。......
2023-08-14
このことから、人民参審員制度を利用する裁判の大部分が基層人民法院で行われていること、人民法院のレベルが高いほど、制度利用の可能性が低くなること、と言う二つの結論を導くことができる。よって、第一の問題点として挙げられるのは、基層人民法院では社会的影響が大きいとは必ずしも言えない事件の裁判にも人民参審員制度を利用していることである。......
2023-08-14
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